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頑張らないために頑張る

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付き合う人間の平均が自分になる

今週のお題「受験」

 

はてなブログには「お題」なる機能がある。「受験の思い出」というお題がでたのでつらつらと書いてみることにする。

 

僕は受験勉強が好きではなかった。勉強すること自体はそれほど嫌いではないのだけれど、反抗期が少し残っていたあのときは、他人・社会から強制される仕組みに反発していたようなきがする。そして街のおっさんをみていると「僕は苦労してあんな大人になるのか?」と自問していたとおもう。

 

そんなわけで適度に勉強して適度なレベルの大学に通うことになるわけだが、通った後に分かることもある。ウォーレンバフェットの言葉だったか「自分は周りの友人の平均値になる」のである。

 

受験する学校学科を考えるに際し「自分は何をしたいのだろう?」と自問自答していた。人工物が好きだったので建築学科があるところにしようか、これからはインターネットだから情報学科にしようか、人間関係で優位に立ちたいから心理学でも学んでみようか、などなど。

結局は特に大きな夢も目標もなかったので受かりそうな大学の一番偏差値の低い学科(物性物理)に合格し、数学系の大学院に進み、ネット系の会社に就職することになる。あのとき「自分は何をしたいのだろう?」と問い続けた日々は、特になんの成果もあげなかったわけだ。

 

今になっておもうに「何を?」という問いは答えが出ない。出ないというより重要ではないという言い方が正しいのかもしれない。興味や時代は移りゆくものである。ときどきに興味のある対象は変わるし、現実的な話「それで食べられるか?」も変わる。ド田舎の高校生に未来予想なんてできないので「何を?」は絶対視すべき軸ではない。

 

じゃあ何を絶対視すべきか。

 

おっさんになってはじめて分かるのは、今も交友がある友人は大学時代の友人がほとんどであること。高校時代の友人との絆も大事だが生活環境が違いすぎる。オランダに転勤になった、○○技術の研究は○○会社が飛び抜けている、サム○ンはやはり強い、、そんな話題が心地よく感じる。町内会の祭りの話とかはどうでもいい。

高校時代の友人を卑下するつもりはない。だがそれは「思い出」なのだ。未来の関係ではなく過去の関係なのだ。気の置けない友人と過去の話をするのは大切なことだ。でもそこに囚われると自分を見失う。

 

受験というお題からズレはじめて取り留めがなくなってしまったが、結局何を言いたいかといえば「何を?」ではなく「誰と友だちになりたい?」と考えるのが良いのではないかと思った。そう考えると受験勉強への気合の入れ方も違ってくるのではないか。

 

付き合う人間の平均が自分になる。これは本当だ。